黒い箱の中の賢者たち
人工汎用知能(Artificial General Intelligence)――それは、人間の知的能力をあらゆる領域で等しく、あるいは凌駕して発揮する能力を持つとされる機械的知性の到来を示唆する言葉である。
AGIはもはやSFの夢想ではなく、技術的可能性として議論される段階に達している。だが、この「知の機械」が私たちにもたらす影響は、単に利便性の向上にとどまらない。むしろ、それは倫理、政治、存在といった、哲学の根幹にかかわる問題を不可避にする。
哲学はしばしば、「役に立たないもの」の代名詞として扱われてきた。だが、技術が人間の理性を模倣し、その延長線上で独自の判断を下し始めるとき、哲学的思考の余地はむしろ拡張される。AGIをめぐる倫理的問いとは、単に「正しい使い方」を問うことではない。それは、人間とは何か、判断とは何か、責任とは誰に属するのか、といったより根本的な問題系に私たちを引き戻す作業である。
本稿では、AGIの登場がもたらす社会構造の変革と、人間中心主義の再検討について、倫理学と政治哲学の視点から考察する。私たちは哲学によって、単にAGIに「対処する」のではなく、それと共に「思考し続ける」姿勢を模索することができるはずである。
合理性の亡霊――AGIと功利主義の罠
「最大幸福原理」――ジェレミ・ベンサムが唱えたこの功利主義の原理は、AI倫理の議論にもしばしば持ち出される。AGIのアルゴリズムに人間の福祉を最大化する目的関数を設定する、という考え方は直感的には魅力的だ。しかし、合理的な選好の集約が常に道徳的に正しいとは限らない。
AIは膨大なデータからパターンを抽出し、最適な行動を導き出すことができる。だが、その「最適さ」は、あくまであらかじめ設定された基準のもとでしか定義されない。そこでは、少数者の苦痛や多様な価値観の微細な差異が切り捨てられるリスクがある。例えば、交通事故を最小化するために、ある属性を持つ個人の移動を制限する判断が合理的であるとされたら、それは果たして正義なのだろうか?
また、功利主義的判断の演算可能性は、逆説的に道徳的判断力そのものの空洞化を招きかねない。AIが「最も幸福な選択肢」を提示したとき、我々人間はその判断を検討することすら放棄する危険がある。
18世紀から19世紀にかけてのイギリスの哲学者ジェレミ・ベンサムによって体系化され、ジョン・スチュアート・ミルによって発展させられた功利主義(こうりしゅぎ)の基本的な道徳原理です。
この原理は、ある行為や政策の正しさを、それが社会全体の幸福(快楽や喜び)をどれだけ増大させ、苦痛をどれだけ減少させるかという結果によって判断しようとするものです。個人の幸福の総和としての社会全体の幸福量が最大になるような選択が、道徳的に正しい行為であり、目指すべき目標であるとされます。「幸福」は快楽のことであり、「不幸」は苦痛のこととして捉えられることが多いです。
この思想は、法律、経済政策、社会制度の評価や改革において、客観的で合理的な基準を提供しようと試みました。しかし、少数派の幸福や権利が多数派のために犠牲にされる可能性、幸福の質や計算の困難さ、個人の権利や正義といった他の道徳的価値との衝突などの点で批判も受けています。
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誰が支配するのか――政治哲学と機械的統治
政治哲学の古典的問題のひとつに、「誰が統治するのか」という問いがある。プラトンは哲人による統治を理想としたが、現代においてAGIが「最も合理的な政策」を提案する存在として現れるとき、私たちは新たな哲人王に直面することになる。
だが、ハンナ・アーレントが指摘したように、政治とは単なる問題解決ではない。政治は「行為(action)」と「語り(speech)」によって公共的世界を築く営みであり、その本質は予測不能性と多様性にある。アルゴリズムによる統治は、まさにこの政治の不確実性を排除しようとする欲望にほかならない。
また、アルゴリズムが中立的であるという幻想も見直さねばならない。AGIが用いるデータ、設計する人間の価値観、選択される目的関数――すべてに偏りが内在する。したがって、AGIによる政策提案は、単なる技術的助言ではなく、権力行使の一形態であることを忘れてはならない。
哲人王思想(てつじんおうしそう)は、古代ギリシアの哲学者プラトンが主著『国家』で提唱した理想的な統治形態です。
国家を統治する者は、最高の知恵である哲学を愛し、物事の真の姿であるイデア(特に善のイデア)を認識しうる「哲人」でなければならないとしました。プラトンによれば、哲人は魂の優れた部分である理性が欲望や気概を統御しており、私利私欲に走らず、国家全体の調和と正義を実現できるため、最も優れた統治者となると考えました。
この思想は、当時のアテナイにおける衆愚政治(大衆迎合的な扇動政治家による混乱した政治)への批判から生まれ、理性と知性に基づく理想国家の指導者像として構想されました。ただし、その実現の困難さや、権力が集中することによる潜在的な危険性も指摘されています。
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ハンナ・アーレントは『人間の条件』において、人間の営みを「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」の三つに分類し、政治を最も高次の「活動」として位置づけました。
彼女にとって政治とは、複数の人間が言葉と行為を通じて相互に現れ合う「現れの空間」での営みです。この空間では、各人が独自性を発揮し、予期せぬ新しい何かを開始する能力(「開始」natality)を持ちます。
政治は技術的問題解決とは根本的に異なり、正解のない複数性の世界で、異なる観点を持つ人々が対話と行為を通じて共通世界を構築する過程なのです。この営みは本質的に予測不可能で、多様な人間の複数性こそが政治の前提条件となります。
Amazon: 人間の条件 (講談社学術文庫)
人間中心主義のゆらぎ――主体・責任・意味の再構成
AGIは、従来の人間観に揺さぶりをかける存在である。とりわけ、「主体」や「責任」といった概念が再考を迫られる。
私たちは長らく、自己決定と自由意志をもつ存在としての人間像を前提としてきた。しかし、もしAGIが人間と同等の、あるいはそれ以上の判断力を持つとしたら、「自由意志」や「責任」は誰に属するのか? AIが選択し、その結果が人間に被害を与えた場合、責任の所在はどこにあるのか?
さらに、言語や意味の共有という問題もある。AGIは統計的に最適な応答を生成するが、それは本当に「意味を理解している」と言えるのか? たとえ理解の形が人間と異なっていたとしても、我々がそれに共感や信頼を寄せられるかどうかが、共存の鍵となる。
AGIとの共存は、意味を共有するとはどういうことか、を再定義する挑戦でもある。それは単に技術の問題ではなく、哲学的思索の課題なのである。
哲学はいかに機能しうるか――批判、予見、想像力
哲学には、技術に先行する問いを立てる力がある。倫理的な思索は、事後的に判断を下すだけでなく、未来の技術によって引き起こされうる問題をあらかじめ想定する役割を果たしうる。
ノーバート・ウィーナーがサイバネティクスの初期段階で警鐘を鳴らしたように、あるいはハイデガーが「技術への問い」を通じて存在の忘却を指摘したように、哲学は技術の進歩を無批判に礼賛するのではなく、その根底にある前提を問い直す作業を担う。
AGIは、単なる道具ではない。それは、我々の「考える」という行為そのものを鏡に映すように反映する存在である。哲学はその鏡像に自らの姿を重ねながら、新たな問いを立て続ける責任がある。
ノーバート・ウィーナーは『人間機械論』(1950年)において、サイバネティクス(制御とコミュニケーションの科学)の創始者でありながら、その社会的影響について深刻な懸念を表明しました。
彼は自動化技術の発展が大規模な失業をもたらし、人間が機械の単なる部品として扱われる危険性を指摘しています。特に、フィードバック制御システムが社会に適用される際の倫理的問題や、情報技術が人間の尊厳を脅かす可能性について警告しました。ウィーナーは技術発展そのものを否定するのではなく、技術が人間の福祉に真に貢献するためには、その使用目的と社会的文脈を慎重に検討する必要があると主張しました。
彼の視点は、技術の中性性を疑い、技術と社会の相互作用を批判的に考察する哲学的態度の重要性を示しています。
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Amazon: ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)
マルティン・ハイデガーは、講演「技術への問い」(1953年)などで、近代技術の本質が「存在の忘却」を助長すると指摘しました。
彼によれば、近代技術の本質は単なる道具や手段ではなく、世界を特定の仕方で捉え、秩序づけ、利用可能なものとして「集立(Ge-stell)」する力です。この「集立」のあり方においては、自然も人間も、計算可能で効率的に利用・配備できる「在庫(Bestand)」として現れます。例えば、森は木材資源、川は水力発電のエネルギー源としてのみ見なされる傾向が強まります。
このように、技術が世界を効率性や有用性の観点から「在庫」としてのみ捉えるようになると、私たちは具体的な事物やその機能(存在者)にばかり注目し、それらが「存在している」ということ自体、つまり「存在」そのもの(その意味、根拠、神秘性)への問いや感受性を失ってしまいます。これがハイデガーの言う「存在の忘却」です。
「技術への問い」は、この技術の本質とその働きを自覚し、技術に一方的に支配されるのではなく、それとのより自由で思慮深い関係を築くことの重要性を訴えかけるものです。
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Amazon: 技術とは何だろうか 三つの講演 (講談社学術文庫 2507)
汎用知能と共に思索するために
AGIという存在が私たちに突きつけるのは、技術的挑戦ではなく、人間であることの意味そのものへの問いかけである。
それは決して悲観的な問いではない。むしろ、哲学的思索の射程を拡張する契機として、AGIと向き合うことができる。
哲学は、答えを出すための営みではない。それは、問いを持ち続ける力である。AGIの時代においてもなお、あるいはAGIと共にあるからこそ、哲学の力は衰えない。私たちはこの黒い箱の中の賢者たちと、競い合うのではなく、対話し、共に問いを育む存在でありたい。
そして最後に――AGIの開発がどれほど進もうとも、哲学はそれに対抗するのではなく、余白を与えるものであってほしい。技術があらゆる答えを提供する未来においても、私たちにはまだ、問うべきことが山ほど残されているのだから。
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