記号の彼岸――AI 言語理解と人間の意味知覚

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言葉を「理解する」とはどういうことか

ある日、スマートフォンの中のAIアシスタントに向かって「明日の天気は?」と尋ねると、即座に「明日は晴れ時々曇り、最高気温は26度です」と返ってくる。そのやり取りに私たちは何の疑問も抱かない。まるで相手が本当に「理解」して答えているかのように感じられるからだ。だが、ふと立ち止まって考えてみると、この「理解」とは一体何を指しているのだろう? 言葉を理解するとは、単に適切な情報を返すことなのか、それともその背後にはもっと複雑な何かがあるのだろうか?

こうした疑問は、言語モデルの進化が進むにつれて、ますます切実なものとなってきている。AIは私たちの問いに答え、文章を書き、時には詩さえ作る。その振る舞いは一見、人間のように意味を理解しているかのようだ。しかし、哲学的な視点から見れば、そこには根本的な隔たりがある。AIが扱うのは記号であり、人間が感じるのは意味だ。この違いは、どこから生じ、どこへ向かうのか――それが本稿の主題である。

記号論の基礎――ソシュールとパースの視点

言語とは記号の体系である。この前提に立ち、言語を記号として分析したのがソシュールである。彼は「能記(シニフィアン)」と「所記(シニフィエ)」という概念を提示した。能記とは音や文字などの形、すなわち記号の外観であり、所記とはそれが意味する概念である。言語はこの二者の関係から成り立ち、しかもその関係は恣意的である。つまり、「犬」という音や文字と、あの四足歩行の哺乳類との結びつきは、社会的合意の結果でしかない。

これに対し、アメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースは、記号を三項関係として捉えた。すなわち、記号(sign)、対象(object)、そしてそれを解釈する心(interpretant)である。ここで重要なのは、「意味」とは記号と対象の間にあるのではなく、それを解釈するプロセスの中で生成されるという点である。意味は固定的なものではなく、常に解釈によって更新され続ける。

これらの理論は、人間がいかにして「意味」を見出すのかを明らかにする鍵となる。一方で、AIがこの三項関係をどう扱うのか、あるいは扱えないのか、という問いもここから浮かび上がる。

ソシュールとパースの視点

フェルディナン・ド・ソシュールとチャールズ・サンダース・パースは、共に20世紀初頭に独自の記号論を提唱し、現代思想に大きな影響を与えた思想家です。しかし、そのアプローチには違いがあります。

スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールは、言語を記号のシステムとして捉えました。彼によれば、言語記号(シーニュ)は、音や文字といった「記号表現(シニフィアン)」と、それが指し示す概念である「記号内容(シニフィエ)」の二項関係から成り立ちます。この両者の結びつきは恣意的(任意)であり、言語体系(ラング)の中での他の記号との差異によって意味が生じると考えました。これは構造主義言語学の基礎となりました。

一方、アメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースは、より広範な記号現象を考察しました。彼の記号論では、記号は「記号それ自体(表意体)」、「記号が指示する対象」、「記号によって心の中に生まれる解釈(解釈項)」という三項関係で捉えられます。記号の作用は絶えず新しい解釈項を生み出すダイナミックな過程(記号過程)であり、記号を対象との関わり方から類像記号(アイコン)、指標記号(インデックス)、象徴記号(シンボル)に分類しました。

端的に言えば、ソシュールは言語という閉じられた体系内の二項関係と差異を重視したのに対し、パースは開かれた無限の解釈プロセスを伴う三項関係として記号を捉え、より普遍的な記号学を目指したと言えます。

AIの言語処理――統計と構造の世界

現代のAI、特に大規模言語モデル(LLM)は、記号の組み合わせの背後にあるパターンを統計的に学習することで、言語を「生成」する。意味を理解しているわけではない。たとえば「りんごを食べる」と言えば、「りんご」が食物であること、「食べる」が動作であることは理解していない。ただ過去の膨大なテキストの中でこの語の並びが多く現れることを知っているに過ぎない。

この状況を哲学的に捉えたのがジョン・サールの「中国語の部屋」問題である。部屋の中に中国語を一切理解しない人物がいても、マニュアル通りに記号をやり取りすることで、外部の人間から見れば「中国語を理解しているように見える」状況が生まれる。これはAIの言語処理のメタファーとも言える。AIは意味を知らないが、我々にはあたかも意味を知っているかのように振る舞う。

AIは真に意味を理解しているか

LLM(大規模言語モデル)は、大量のテキストデータから単語間の統計的パターンを学習し、もっともらしい言葉を予測・生成します。これにより人間と自然に対話するなど、一見意味を理解しているかのように振る舞います。

しかし、LLMが人間のように概念や実世界の経験と結びつけて「真に意味を理解している」かは議論の的です。「記号接地問題」が示すように、現在のLLMの能力は高度な記号操作に留まり、その記号が指し示す実質的な意味の把握には至っていないという指摘が多くあります。LLMにとっての「意味」とは、あくまでデータ上の関連性に過ぎないという見方です。真の「意味の理解」にどう近づけるかが、今後の重要な研究課題となっています。

人間の意味知覚――身体性と文脈

一方で、人間の言語理解は、身体性や感情、文脈に深く根ざしている。幼児が言葉を覚えるとき、彼らは言葉を「辞書的に」覚えるのではない。例えば「熱い」という言葉は、火に触れて「熱い!」と叫ぶ体験の中で獲得される。意味は経験と感覚を通して身体に刻まれる。

哲学者モーリス・メルロ=ポンティは、人間の知覚を「身体を通じた世界との関係性」として捉えた。言語理解もまた、抽象的な記号操作ではなく、身体を介して世界に意味を与える行為である。言葉は空中を漂う記号ではなく、現実の厚みに触れる触覚のようなものだ。

交差点としての記号――共通するもの、異なるもの

AIも人間も、記号を用いるという点では共通している。しかし、その記号の「意味するもの」がどこにあるかが決定的に異なる。AIにとって記号は、入力と出力をつなぐ媒体であり、それ自体に感覚的な重みはない。一方、人間にとって記号は、世界との接触点であり、内面的な意味の泉である。

ある詩人が「秋は別れの気配がする」と詠んだとき、AIはその文を文法的に解析し、「秋」「別れ」「気配」といった語の共起関係を認識するだろう。しかし、人間はそこに、風の冷たさ、木々の色の変化、かすかな哀しみといった感覚を通して意味を感じる。これは情報処理ではなく、意味の生成である。

結びに変えて――記号の彼岸へ

AIの進化は、人間とは何かを逆照射する鏡である。言語モデルがますます巧みに「意味ありげな」文章を生み出す中で、私たちは「理解する」とは何かを改めて問うことになる。記号をいかにして超えるか――つまり、記号を通して意味を生きるとはどういうことか。

記号の彼岸とは、単なる処理ではなく、意味に触れ、揺さぶられる体験のことである。AIは記号の中に留まる。だが人間は、そこに意味を見出し、時には意味を問う存在である。意味とは、記号が語ることを超えて、私たちが耳を澄ませるときにのみ立ち現れる、静かな気配のようなものかもしれない。

この違いを忘れぬ限り、AIとの共存は単なる便利さを超えて、私たちの「意味への感度」を磨く契機となりうるだろう。記号の彼岸に立ち、なお問い続ける――その姿勢こそが、人間らしさの核心なのかもしれない。

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この記事を書いた人

フレームシフトプランナー。
AIとの対話で「問いのフレーム」を意図的にシフトし、新たな視点とアイデアを生み出す。

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