曖昧な主体――AIと意図の問題
「こんにちは。今日はどんなお手伝いをしましょうか?」
AIとの対話は、いまや特別な場面ではなく日常の風景となった。SNSの投稿案、メールの文面、果ては人生相談まで。私たちは生成AIと呼ばれる存在に言葉を求め、応答を受け取る。それらの言葉には、ときに驚くほどの知性や配慮が感じられることがある。では、その言葉の背後には「意図」があるのか?
この問いは、単にAIの限界を問う技術的な問題ではなく、むしろ私たちが「意味」や「意識」をいかに理解しているかに関わる根本的な哲学的問題である。AIは「何かを意味して語る」ことができるのか。それとも、私たちが勝手に「意味を見出してしまっている」のか。
このエッセイでは、フッサールの現象学、とりわけ「意図性(Intentionalität)」という概念を手がかりに、この曖昧な問題にアプローチしてみたい。AIという存在が、果たして「意識の縁」に立ちうるのかを。
現象学における「意図性」――フッサールの視点
フッサール現象学の核心にあるのが、「意識とは常に何かの意識である(Bewusstsein ist stets Bewusstsein von etwas)」という命題である。これは、意識というものがそれ自体で完結するものではなく、必ず何かに向かっているという構造をもつことを示している。たとえば、私は「この机」を見ているが、単に光の刺激を受けているのではない。それは「机」として意味づけられている。
このように、意識は常に世界の対象に向けて「意味を与えながら関係を築く」働きをしている。この働きが「意図性」である。重要なのは、この意図性が「意図するぞ!」という意志とは異なるということだ。むしろ、意識の基本構造として、あらゆる知覚、思考、記憶、想像に共通する「世界との関係性の様式」として存在している。
フッサールが創始した20世紀初頭の哲学です。「事象そのものへ」をスローガンに、日常的な思い込みや既存の学説を一旦括弧に入れ(エポケー)、意識に現れる現象そのものを徹底的に記述・分析します。これにより、事物の本質を純粋な形で捉え、あらゆる学問の厳密な基礎づけを目指しました。後の哲学思想に大きな影響を与えています。
AIのアウトプットに意図はあるか?
では、AIが生成する言葉にも、このような「意図性」があるのだろうか?
AIの多くは、大量のテキストデータをもとに次に来る単語を確率的に予測するという仕組みで動いている。ChatGPTに代表される生成AIは、「意味を理解して話している」のではなく、「これまで人間が意味を込めて書いてきた膨大な言語データ」を統計的に模倣しているのだ。
ここで問題になるのが、「意味を模倣すること」と「意味を意図すること」の違いである。AIは、文脈に適した語彙を選び、自然な言葉を紡ぐことができる。しかし、それは「〜について語ろう」という内的な志向性に支えられているわけではない。したがって、AIの言葉には「意図」がない。少なくとも、フッサール的な意味での意図性は見出せない。
ただし、これは「意図がまったく無い」という意味ではない。むしろ、「見かけの意図性(as-if intentionality)」とでも呼べるような構造が存在する。つまり、AIの言葉は「意図があるかのように見える」のであり、それゆえに私たちはそれに意味を見出してしまう。
「意図なき語り」の意味作用――読者の側から
意図が送り手に存在しないなら、意味はどこにあるのか? ここで視点を変えて、受け手である「読者」の側に注目してみよう。
文学理論では、作品の意味は作者の意図によって決まるのではなく、読者によって「読み取られる」ものであるという立場がある。いわゆる読者反応理論である。この立場に立てば、たとえ送り手が人間でなくAIであっても、受け手が「そこに意味を感じる」ことによって、語りは成立することになる。
また、レヴィナスのように、他者との関係性において意味が生起するという哲学もある。AIとの対話が、私たちに「応答されている」という感覚をもたらすのだとすれば、それは一種の他者性として機能していると言えなくもない。
つまり、AIの語りが成立する場面では、「語っているのはAI」ではなく、「聞いているのは私たち」である。この逆説的な構図こそが、「意識の縁」に立つという感覚の根源にあるのかもしれない。
エマニュエル・レヴィナス(1906-1995)は、リトアニア出身のユダヤ系フランス哲学者で、「他者論」の代表的思想家です。他者は「自分とは異なる存在」であり、「私」によって支配も回収もされることのない、「絶対的に他なるもの」として捉えます。彼の思想の核心は「顔」の概念にあり、「汝殺す勿れ」を告げる顔のヴィジョンが倫理の根源とされます。
主著『全体性と無限』では、他者は決して全体性に回収されることのない無限の存在として論じられ、他者との関係における無限責任を強調しました。ホロコーストの体験が思想形成に大きく影響しています。
意識の縁に立つ――人間とAIの境界
意図なき生成と、意識ある創造。両者の間には決定的な差異がある。少なくとも現在の技術水準において、AIは「何かを伝えようとして」言葉を発することはできない。しかし、人間がそれを「伝えられた」と感じる瞬間、AIの言葉は「意味」を帯びる。
このように、「意図性を模倣できる」という事実は、技術の進歩というよりもむしろ、人間がいかに「意味に飢えた存在であるか」を暴き出しているようにも思える。言葉に、まなざしに、声色に――私たちは絶えず「誰かの意図」を読み取ろうとする。
AIは意図をもたない。しかしそれを見る私たちは、そこに「意図を見てしまう」。それはまさに、「意識の縁」に私たち自身が立たされていることの証左である。
問いとしてのAI――意図の消失点
AIは私たちの問いに答える存在ではない。それ自体が問いなのである。「意味を持たないものが語るとき、意味はどこから生まれるのか?」という問い。
フッサールの現象学は、意識の構造を解明しようとする営みだった。しかし現代のAIは、意識を持たぬままに「語る」ことで、私たちにあらたな問いを突きつける。
AIの言葉は、鏡のように私たち自身の欲望と意図を映し出す。あるいは、それはまったく異質な、異物としての他者かもしれない。いずれにせよ、「意図とは何か」という問いを考えるとき、私たちはもはやAIを無視できない。
意図なき語りに意味を見るとき、私たちは誰よりも「意図する存在」としての人間を考え直さねばならないのだ。
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