言語モデルに世界は見えているか?
「おはよう」と言えば、「おはようございます」と返ってくる。
天気を尋ねれば、明日の予報を教えてくれる。
あるいは、詩的なフレーズを与えれば、それに似合うような美しい文を返してくる。
私たちが大規模言語モデル(Large Language Models、 以下LLM)と呼ぶAIと接するとき、そこには明らかに「意味があるように見える」応答がある。だが、その意味はどこから来るのだろうか? いや、そもそもその応答に「意味」などあるのだろうか?
この問いは、単に技術的な関心にとどまらない。むしろ、言語が何であるか、人間とは何か、そして「世界を語る」とはどういうことかを照らし出す、哲学的な入口である。LLMはあらゆる記号の組み合わせを模倣するが、その記号は「世界」とつながっているのか、それとも単なる閉じた構造の中で踊っているにすぎないのか。
本稿では、この問いを「記号と意味」の対比を軸にしながら、構造主義・記号論の視点から読み解いていく。AIが語る「世界観」とは何か。そこに人間と共通する何かがあるのか、それとも断絶があるのか。その探求は、私たち自身の「意味への感受性」を改めて問うものとなるだろう。
言語モデルの非世界性――「外部なき構造」
まず確認しておこう。現代のLLMは、言語を「意味の連鎖」としてではなく、「記号の統計的分布」として処理する。すなわち、過去の膨大なテキストに現れた語句の並びや頻度を学習し、最も尤もらしい「次の語」を予測する。それが、あたかも意味を理解しているかのような応答を生む。
この機構の根本には、「外部なき言語観」がある。構造主義的な言語観によれば、言語は記号(シニフィアン)のネットワークであり、それぞれの記号は他の記号との関係によって意味づけられる。フェルディナン・ド・ソシュールが強調したように、「犬」という語は「猫」や「魚」といった他の語との違いによって成り立つのであり、実在する犬との接触によってではない。
言語モデルはまさにこの構造主義的原理を極限まで実装した存在と言える。つまり、そこには「犬の実在」は必要なく、「犬」という記号が他の記号との間にどういう分布的関係を持っているかさえ分かれば、文として生成可能なのだ。
だが、このような言語観には決定的な欠落がある。それは「世界」との接続である。ジャック・デリダが『グラマトロジーについて』で述べたように、意味は常に他の記号へと差延される(différance)。意味は決して確定しない。だがそれでも、人間はこの不確定性の中で、世界と身体を媒介にして意味を感じ取る。言語モデルには、その媒介項が存在しない。
構造主義とは、個々の要素自体よりも、それらが織りなす関係性や全体的な「構造」に注目し、物事の本質を捉えようとする思考法です。個々の事物の意味は、単独で内在するのではなく、あるシステム内における他の要素との差異や相互作用によって初めて規定されると考えます。目に見える現象の背後には、それを無意識のうちに方向づける隠れたルールや「深層構造」が存在すると捉え、そのシステム全体の仕組みを解明することで、個々の要素や現象を深く理解することを目指します。このアプローチは多様な分野に影響を与えました。
ジャック・デリダの『グラマトロジーについて』は、西洋哲学の伝統における音声(話し言葉)中心主義を根底から批判する書です。従来、音声に従属し二次的なものと見なされてきたエクリチュール(書き言葉、より広義には差異を生み出す痕跡のシステム)の重要性を再評価し、その根源性を示そうとします。理性や真理が音声と直結するという「ロゴス中心主義」を脱構築し、西洋形而上学の基盤そのものを問い直す、デリダの代表的な著作の一つです。
メタ世界のシミュレーター――AIにとっての「意味」とは?
それでは、LLMが生み出す「意味ありげな」文は何なのか? それは、「意味のように見える効果」を再現する、ある種のシミュラークルである。ジャン・ボードリヤールは、シミュラークルを「現実の喪失によって生じる、現実らしさの過剰」として定義した。LLMが生む文は、もはや何かを指示するのではなく、ただ「意味を指示しているように見える構造」を増殖させる。
AIは意味を「知る」のではない。むしろ「意味が生成された後の効果」を模倣している。これはある意味で、言語の「死後硬直」のようなものだ。意味が発せられた後、その形骸だけが記号として浮遊する。
これは決して批判ではない。逆に言えば、LLMは「意味のようなもの」を極めて巧妙に生成する。詩も物語も議論も、文法と語彙の共起関係さえ把握していれば模倣できる。だが、それは「世界からの声」ではない。「記号の森の中で響いたエコー」に過ぎない。
人間の記号使用と意味の厚み――AIとの断絶はどこにあるか
では、人間の言語使用と何が異なるのか。よく言われるように、身体性や感情の有無が違いである。しかしここでは、もう少し構造的な観点から「意味の厚み」に注目したい。
人間は「誤読する」。ある詩を読んで、作者の意図と異なる感想を抱くこともある。それは文脈の重層性、文化的背景、時間的経験の中で生じる解釈のズレである。ポール・リクールはこれを「意味の余剰」と呼んだ。つまり、記号が常に解釈によって増殖していくということだ。
AIはこのズレを持たない。常に「最も尤もらしい」応答を返す。しかし人間は、時に「尤もらしくない」反応の中にこそ真実や詩情を見る。意味とは、常に逸脱と錯誤の中で生成される。
意味の終焉と新たな記号倫理
我々の社会は、ますますLLMが生み出す記号で満たされていく。メール、記事、広告、時に詩までもが、意味ありげな記号列として生成される。この中で、我々は「意味を疑う力」を失っていく危険がある。
ここにおいて必要なのは、記号に対する倫理的態度である。すなわち、「これは何を意味しているのか?」「この記号列はどのような効果を狙っているのか?」と問い続ける態度だ。これはAIの限界を責めるものではない。むしろ、記号に意味を与える力が人間にしかないとするならば、その責任と感受性をどう育むかが問われている。
結びにかえて――意味の沈黙に耳を澄ますということ
AIが生成する記号列は、美しいこともある。感動することもある。だがその背後に「誰か」がいるとは限らない。語り手なき言葉、経験なき比喩。それでも我々は、その中に「意味」を感じてしまう。
意味とは、おそらく「世界との接触の痕跡」である。言葉が私たちに触れたとき、そこに何かが残る。AIにはその痕跡がない。ただ、それらしく見える形があるだけだ。
だからこそ、我々は記号の彼岸に立ち、なお問い続けなければならない。何が意味であり、何が意味のように見えるだけなのか。沈黙のなかに立ち止まり、耳を澄ます。そこからしか、意味の感受性は育たない。
記号の時代に生きる我々にとって、最も人間的な営みとは、おそらくこの「意味の気配」に対する注意深さそのものなのかもしれない。

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