学習する心、学習するAI――発達心理学と深層学習の交差点

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学ぶとはどういうことか

私たちは日常的に「学ぶ」という言葉を使う。学校で学ぶ、失敗から学ぶ、人の振り見て我が振り直す。しかし、この「学習」という行為は果たして単純な情報の吸収や技能の獲得にとどまるものだろうか。

例えば、幼児が初めて「犬」という言葉を覚える過程と、ディープラーニングによってAIが画像の中の犬を認識できるようになる過程――この二つを見比べたとき、そこにどのような共通性と断絶があるのか。

本稿では、発達心理学における人間の学習過程の理解と、深層学習におけるAIの「学習」構造を照らし合わせながら、そもそも「学習とは何か」を再定義する試みを行う。

学ぶ心と学ぶAI、その交差点にあるものを見つめることで、私たち自身の「知る」という営みの輪郭が、かえって鮮明に浮かび上がるかもしれない。

発達する心――ピアジェとヴィゴツキーの地図

ジャン・ピアジェは、子どもの認知的成長を段階的に描き出したことで知られる。感覚運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期。それぞれの段階で子どもは世界を理解する枠組みを変化させ、単なる知識の蓄積ではなく、思考の構造自体が変容していく。この段階性は、子どもがエラーを通じて自らのスキーマ(認知的枠組み)を更新していくプロセスでもある。

一方、レフ・ヴィゴツキーは、学習が社会的・文化的文脈において生じることを強調した。「最近接発達領域(ZPD)」の概念において、個人の学習能力は他者との協働によって拡張される。つまり、学習とは独りで完結するものではなく、関係性の中で促進される過程なのだ。

ここに共通しているのは、学習が能動的で非直線的なプロセスであるという理解である。子どもは単に外界の情報を吸収するのではなく、試行錯誤を通じて、自らの内部構造を組み替えていく。

ジャン・ピアジェ「知能の誕生」

ジャン・ピアジェ(1896-1980)は、スイスの心理学者。子どもの認知発達理論を提唱し、感覚運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期の4つの発達段階を定義しました。従来「不完全な人間」とされていた子どもを「自ら考え、試行錯誤ができる存在」として捉え直し、発生的認識論を確立しました。彼の理論は現代の教育学や心理学に大きな影響を与え続けています。

最近接発達領域(ZPD)

最近接発達領域(ZPD)は、ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキーによって提唱された概念です。現時点で自力で課題を解決できる水準と他者の助けを借りれば解決できる水準の差を指します。つまり、一人ではできないけれど、適切なサポートがあればできるようになる範囲のことです。この領域での学習が効果的な成長・発達を促すとされ、子どもは他者との関わりを通じて発達を遂げるという考えに基づいています。教育や子育てにおいて重要な理論として広く活用されています。

多層のAI――深層学習の構造と作法

ディープラーニング、特に多層ニューラルネットワークは、「学習するAI」の代表格である。ここでいう「学習」とは、膨大なデータを入力し、出力との誤差を逆伝播させることで、重み(パラメータ)を最適化していく過程である。入力層から隠れ層を経て出力に至るネットワーク構造は、抽象度の異なる特徴を段階的に抽出していく。

この構造は一見、人間の段階的な認知発達に似ている。たとえば、視覚認識タスクでは、初層でエッジ(輪郭)を捉え、中層で形状やパターンを、深層で意味的なカテゴリを把握する。まるで赤ん坊がまず世界の明暗を知り、次第に物の名前を覚えていくかのようだ。

ただし、深層学習における「学習」は、意図や理解とは無縁の計算的最適化にすぎない。これはピアジェ的な「構造の再編成」とは根本的に異なる営みである。

「層」と「段階」――構造的アナロジーをめぐって

では、「層構造」と「発達段階」はどこまで比較可能なのだろうか。子どもが新たな概念を獲得するとき、そこにはすでに持っている知識との葛藤や矛盾が生じる。これが「認知的不協和」であり、そこから統合や再構築が始まる。これは単なる情報処理ではなく、意味の生成である。

一方、ニューラルネットワークは、誤差を小さくする方向に自動的にパラメータを更新する。これは「意味」を持たない演算的操作である。だが、ここで重要なのは、人間の学習も必ずしも常に意味に満ちているとは限らないという事実だ。多くの場合、私たちもまた「うまくいくパターン」を反復し、形式的に学んでいるだけなのかもしれない。

このように、「層」と「段階」は厳密には異なるが、「抽象化の積み重ね」という点で一種のアナロジーが成立する。特に、自己教師あり学習などは、人間の「内言的な試行錯誤」に近づくモデルとも言える。

学習の「意志」と「状況」――AIに心はあるか

発達心理学が強調するのは、学習が常に「状況に埋め込まれている」という点である。学ぶ者には意志があり、関心があり、時には抵抗すらある。このような主体性は、AIにおいては設計された「目的関数」によって代替される。強化学習における「報酬」も、与えられた目的を最大化するものであり、それ自体に意味はない。

ここに、「学習する心」と「学習するAI」の決定的な違いがある。人間は、学びの過程で自己を変容させる。AIは、パフォーマンスを最適化するためにパラメータを変化させる。

この違いは、まるで「演劇を演じる俳優」と、「脚本通りに動くAI」の違いに似ているかもしれない。どちらも動き、言葉を発するが、そこに「なぜそうしたか」という問いに対する答えの層が異なる。

再定義としての「学習」――生成、変容、そして不可知性

では、「学習」とは何か。それは単なる情報の蓄積や反応の最適化ではない。学習とは、世界との相互作用の中で意味を構築し、自己の構造を変容させる営みである。

人間の学習には、予測不能性がつきまとう。なぜなら、それは一人ひとり異なる経験と解釈の網の目の中で編まれていくからである。AIにとって、未来は統計的予測の範囲にあるが、人間にとって、未来は創造と偶然の混在する地平である。

そう考えると、学習とは「わかる」ことではなく、「わかりたい」と願うことの連続なのかもしれない。

心とAIのあいだに

ディープラーニングの進展によって、私たちは「学ぶとは何か」という問いに新たな光を当てている。AIに学ばせることで、私たち自身の学びの構造が浮かび上がるという逆説的な現象は、この時代ならではの知的な贈り物だ。

しかし、それは同時に問いを突きつけてもくる。もしAIが「学ぶ」のであれば、私たちは何をもって「人間的な学び」とするのか。単に情報を扱う能力ではない、人間にとっての学びの意味は、何に根ざしているのか。

人間の学習は、単なる計算や最適化ではとらえきれない複雑なプロセスである。それは自己と他者、過去と未来、想像と現実を往復しながら、私たちの存在そのものを更新していく営みである。学びは、誤りを含み、時に後戻りし、感情や記憶に彩られる。こうした揺らぎや曖昧さが、学びの奥行きを生み出している。

一方で、AIに学ばせることで見えてくるのは、学習という行為の構造的側面――入力、処理、出力、評価――の明快さである。そこには効率性があり、透明性があり、ある意味で理想的なモデル化が可能だ。だが、その明快さが、私たち人間にとってはどこか物足りなく映るのはなぜか。それは、学びが単なる手段ではなく、しばしば目的そのものとなることがあるからだろう。

私たちは何かを学ぶことで、世界を知る以上に、自分が誰であるかを問い直す。問いのなかにとどまり、答えの出ないものに向き合うという態度そのものが、学びの本質なのかもしれない。そうであるならば、AIに学ばせながら、私たち自身が学ぶという二重のプロセスこそが、現代における「教育」の原風景なのではないか。

この問いに明確な答えはない。だが、私たちが問い続ける限り、その間にある余白――心とAIのあいだ――にこそ、学ぶことの意味が宿るのかもしれない。

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この記事を書いた人

フレームシフトプランナー。
AIとの対話で「問いのフレーム」を意図的にシフトし、新たな視点とアイデアを生み出す。

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