ある選択の風景
昼下がり、街角のカフェ。目の前にはメニューが広がり、目移りするほど多彩な選択肢が並んでいる。サンドイッチか、キッシュか、それとも本日のパスタか。そんな些細な選択の裏にも、無数の変数が潜んでいる。価格、健康への影響、気分、昨日食べたもの、店内の匂い、隣のテーブルの客の注文……。
こうした瞬間、私たちは直感と記憶と欲望の海の中で「最善の選択」をしようとする。だが、「最善」とは何か? 選んだ直後の満足感か、長期的な健康への寄与か、はたまたSNS映えする美的判断か? この問いは、日常のあらゆる局面に潜む。そしてそのたびに、私たちは実に不完全な、しかし人間らしい選択をしている。
人間の選択理論の歩み
経済学の古典的モデル、期待効用理論(Expected Utility Theory)は、「合理的な主体」が最大の効用をもたらす選択をするという前提に立っていた。ここでは、人間の選好は一貫しており、確率的な見通しと効用の積が最大になるように行動するとされる。
しかし、現実の人間はそのように振る舞わない。ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーのプロスペクト理論は、人間がリスクをどう「感じるか」に注目した。損失回避、参照点依存性、確実性効果といった心理的傾向が、人間の選択を「合理的」な軌道から逸脱させる。
また、ハーバート・サイモンの「限定合理性」も重要だ。情報には限界があり、計算能力も有限である以上、人間は「最善」より「十分に良い」選択、すなわち「満足化(satisficing)」を目指す。
期待効用理論は、不確実性下での意思決定を説明する経済学の古典的理論です。個人は各選択肢の「期待効用」(結果の効用×確率の合計)を計算し、最大値となる選択肢を選ぶと仮定します。例えば宝くじの購入判断では、当選金額の効用と当選確率を掛け合わせて評価します。しかし現実では、人間は損失を過大評価したり確率を正しく認識できないため、この理論通りには行動しないことが多く、プロスペクト理論などの修正理論が登場しました。
プロスペクト理論は、人間が利得より損失を大きく感じる「損失回避」や、確率を正しく認識できない傾向を説明する行動経済学の理論です。カーネマンとトヴェルスキーが提唱し、従来の期待効用理論では説明できない人間の非合理的な選択行動を心理的要因から解明しました。
AGIの意思決定――計算可能な最適解?
人工汎用知能(AGI)の登場は、こうした選択理論に新たな光を投げかける。AGIは、超人的な速度と精度で膨大なデータを処理し、複雑な意思決定を遂行できる。強化学習に基づく最適化、ベイズ推論を用いた不確実性の処理、遺伝的アルゴリズムによる探索など、その手法は多岐にわたる。
AGIにとっての「選択」は、しばしば報酬関数の最大化問題として定式化される。この関数が設計される限りにおいて、AGIは一貫した合理性を持ち、感情のバイアスに左右されることはない。だがその「純粋性」は、時に人間にとって不気味でもある。
最適化は、常に望ましいのだろうか? 例えば、交通渋滞を完全に解消するために、高齢者の運転を制限するという政策をAGIが提案したとしたら? 効率は上がるかもしれないが、そこには「人間らしさ」や「尊厳」が犠牲にされているかもしれない。
対比:感情と計算、曖昧さと確実性
人間の意思決定は、たとえ誤りを含んでいても、しばしば豊かな含意を持つ。ある患者が、延命治療を拒否するという選択をする。それは科学的には「最適」ではないかもしれないが、人生の物語として、ある種の完成を意味することがある。
AGIはこのような「意味」を理解できるか? 仮に可能になったとして、それは「理解」なのか、「模倣」なのか?
また、人間の非合理性には、社会的な緩衝材としての機能もある。すべてが計算可能になった世界では、「後悔」や「希望」の居場所はどこにあるのか。
未来の意思決定モデル
では、未来の意思決定はどうなるのか。
AGIが提示する最適解を、人間が取捨選択する「協働的意思決定(Human-in-the-loop)」モデルが現実的である。医療におけるセカンドオピニオンのように、AGIは情報提供者であり、最終的な選択は人間に委ねられる。
もう一つの方向性は、AGIが「感情的文脈」を学習することで、人間の価値判断を内在化するというものだ。だが、それが人間の選択を「補完」するのか、「代替」するのかは慎重に見極める必要がある。
自由意志とは何か。
もしAGIが私たちよりも「賢い」選択をするなら、我々はその判断に従うべきか?
それとも、自らの不完全な選択に固執する自由を守るべきか?
結び――選択することの詩学
選ぶという行為は、単なる意思決定ではない。それは、自己の物語を編むための一節であり、未来への約束でもある。最適化された答えが、必ずしも「生きる意味」に通じるとは限らない。
選択の自由は、時に重く、時に不合理で、しばしば後悔を伴う。だがその不完全さこそが、人間の尊厳であり、美しさでもある。
AGIがどれほど進化しようとも、「誰が選ぶのか」という問いは、決してアルゴリズムには譲れない。私たちの次の一手が、たとえどんなに些細なものであれ、それが「人間の選択」である限り、その重みは失われない。
そう信じることこそが、未来の意思決定に残された、人間らしい詩学である。
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