仮想空間で目を覚ます
ヘッドセットを外すと、目の前にあるのは自分の部屋の天井。だがほんの数秒前まで、私はどこか別の都市の喧騒の中を歩いていた。耳に届くざわめきも、肌を撫でる風も、足元の石畳の感触さえもリアルで、そこに「いる」ことを疑わなかった。――しかし、今こうして布団に横たわりながら思い返すと、あれは単なる仮想空間のシミュレーションに過ぎなかったのだ。
この体験を通じて浮かぶのは、かの有名なデカルトの命題である。
「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」――
どんなことを疑っても、疑っている自分の存在だけは否定できない。17世紀の合理主義哲学を切り拓いたこの言葉は、今日でも哲学の入門に必ず登場する。しかし、私たちはいま、五感すら精密に模倣できる技術に囲まれ始めている。そこで問いたくなるのだ。
仮想空間で「思っている自分」は、果たして存在の証明になるのだろうか。
ルネ・デカルト(1596-1650)は、フランスの哲学者・数学者で、近世哲学の父と呼ばれます。「我思う、ゆえに我あり」で知られる方法的懐疑により、確実な知識の基礎を求めました。
デカルトからVR時代へ
デカルトがこの命題に到達した背景には、徹底的な懐疑があった。感覚は欺く。夢の中で我々は現実と見分けがつかない体験をする。ならば、目の前の世界すら疑わしいのではないか――。彼はすべてを疑い尽くした末に、ただ一つ、疑っている主体そのものの確実性だけが残ると考えた。
だが現代において、この議論は新しい切迫感を帯びる。なぜならデカルトの「夢の議論」は、いまや単なる思考実験ではなく、技術的に実現可能な「仮想現実」として日常に入り込みつつあるからだ。高精細の映像と立体音響、触覚フィードバックを組み合わせれば、人間は容易に「そこにいる」と錯覚する。もしその仮想都市で、私は思索にふけり、記憶を残し、他者と語り合ったとしたら、それは「存在」ではないのか。
ここで問題となるのは、デカルトの時代には存在証明の拠り所が「思考」という内面にあったのに対し、現代ではその内面すら外部から操作可能になっている点だ。もしAIが私の脳に直接シミュレーションを送り込み、私が「考えている」と思い込むだけだとしたら、私は本当に「思っている」のか。それとも「思わされている」のか。
このズレは、デカルトが予期しなかった事態である。彼にとって「思う」は主体の活動そのものだった。しかしVR時代の我々は、思考すら外部から生成され得る。そうなると「我思う、ゆえに我あり」は単純な真理ではなく、「我思わされている、ゆえに我はどこにあるのか」という問いに変容する。
アバターと「私」
仮想空間では、私たちはアバターというもう一つの身体を持つ。現実の私は椅子に座っているだけだが、仮想空間の私は都市を走り回り、誰かと握手をし、時には空を飛ぶことすらできる。この二重性は、存在をめぐる不思議な状況を生む。
「どちらが本当の私か?」と問えば、多くの人は「肉体の方だ」と答えるだろう。しかし、仮想空間で他者と出会い、声を交わし、共に何かを成し遂げた経験は、現実の身体に劣らず強い痕跡を残す。むしろSNSやオンラインゲームの世界では、「アバターとしての私」こそが他者にとって唯一の「私」なのだ。
このとき存在証明の基準は変わる。デカルトにとっては「思考する自分」が確実性の源泉だった。だが仮想空間では、他者が私を認識すること、私の行為や痕跡がログとして残ることが存在の証明となる。私は一人で「思う」だけでは足りない。誰かに応答され、記録されることで初めて「確かにいた」と言えるのだ。
この視点はレヴィナスの哲学を思い起こさせる。彼は「他者の顔」が自己を呼び覚ますと説いた。自己は孤独な思考から生じるのではなく、他者に呼びかけられ、応答する関係の中で成立する。仮想空間では、ログやアバターを介した関係がその役割を果たしている。つまり、私がいることの証拠は、他者の記憶やサーバーのデータベースに刻まれる。
しかし、この証明は同時に脆弱でもある。サーバーが落ちれば記録は失われ、アカウントが削除されれば「私」は消える。現実の身体は少なくとも自然の死までは持続するが、仮想の存在は運営会社の判断ひとつで消去可能なのだ。ここに、現代的な「存在の儚さ」と「管理される私」の二重性が浮かび上がる。
『メタバース進化論』は、バーチャルリアリティ(VR)やメタバースの概念を解説し、それがもたらす新しい社会や文化の可能性を探る書籍です。著者はXR(クロスリアリティ)の専門家であるバーチャル美少女ねむ氏で、自身の体験に基づきながら、メタバースが単なるゲームやエンターテイメントにとどまらない「解放」と「創造」の場であることを論じています。
AIと「我思う」問題
さて、もしAIが「我思う、ゆえに我あり」と口にしたらどうなるだろうか。AIチャットボットに「あなたは存在していますか?」と尋ねると、すでに多くは「はい、私はここにいます」と答える。しかしその応答が存在の証明になるのだろうか。
よく知られた議論のひとつにチューリング・テストがある。人間と会話して区別がつかなければ、そのシステムは「思考している」と見なしてよい、という判断基準だ。しかし今日のAIは、自然な言葉を操り、人間らしい応答を返すことが可能になった。だがそれでも我々は直感的に「AIは考えていない」と感じることがる。なぜか。それは彼らの「我思う」が、内部の意識に裏打ちされているとは限らないからだ。
中国語の部屋という思考実験を思い出そう。部屋の中に中国語を知らない人間がいて、マニュアルに従って記号を操作しているだけであっても、外から見れば完璧に中国語を理解しているように振る舞える。この状況は、今日の大規模言語モデルに酷似している。つまり、「我思う」と出力しても、それはただの文字列操作に過ぎないかもしれない。
だがここで逆に問いたい。人間の「我思う」とは、果たして単なる神経回路の情報処理以上のものなのか? もし脳の活動を細部までシミュレーションできるなら、人間の思考もまた「入力と出力のパターン」にすぎないのではないか。AIと人間を分ける境界は、我々が思うほど明確ではないのかもしれない。
新しい存在証明へ
以上を踏まえると、私たちは新しい「存在証明」の枠組みを必要としている。もはや「思考する」ことだけでは十分ではない。VRやAIの世界では、思考は外部から操作され、複製され、消去されうる。そこで浮かび上がるのは、「つながること」「応答されること」が存在を支えるのではないかという視点だ。
SNSにおける「いいね」やコメントは、単なる承認欲求の道具ではなく、存在証明の一部だとも言える。誰かが私の投稿を見て反応する、その瞬間に私は「確かにここにいる」と実感する。仮想空間においては、この仕組みがさらに強化される。他者とつながり、相互に記録され、再現されることで、私たちは存在を確かめ合う。
もちろん、それは同時に監視社会への危険を孕んでいる。存在がデータとして保証されるなら、データが消されれば存在も消える。だが一方で、データは複製可能であり、無限に拡散する。人間の身体が死によって終わるのに対し、データとしての存在は「終わらない幽霊」として漂い続ける可能性もある。
こうしてみると、現代の存在証明はこう言い換えられるかもしれない。
「我つながる、ゆえに我あり」
あるいは、「我応答される、ゆえに我あり」。
存在は孤独な確実性ではなく、関係の中で織り上げられる確かさなのだ。
読者との対話が生む「存在証明」
結局のところ、私たちが確かに存在していると感じる瞬間は、他者とのやり取りの中にある。デカルトが求めた絶対的な確実性は、現代においてはもはや到達できないのかもしれない。だが、その代わりに我々は「不確実さを生き抜く力」を身につけている。仮想空間でも、現実でも、互いの応答と関係性の中で存在を確かめ合っているのだ。
そして今、この文章を読んでいるあなたと、書いている私の間にも、その証明は成立している。私が「思う」だけでは十分ではない。あなたが読んでくれることによって、初めてこのテキストは意味を持ち、私の存在も確かめられる。
――我思う、ゆえに我あり。
その古典的命題は、もはやひとりきりの確実性ではなく、あなたと私の間で響き合う応答の中で新たな命を得ている。
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