認識の拡張か喪失か――AI 時代の知覚と心理のパラダイムシフト

見えているのに「わかっていない」世界

人工知能が描いた絵画を見て「才能を感じる」と言い、ChatGPTの回答に「説得力がある」と頷く──こうした日常的な体験は、私たちがAIに対して抱く“理解している感”の根拠の曖昧さを浮き彫りにしている。AIは、確かに人間のように話し、描き、応答する。しかし、果たしてそれは「理解」と呼べるものだろうか? そして、そうしたAIのアウトプットに囲まれて生きる私たちの「理解」は、果たしてどこへ向かっているのだろう?

本稿では、AIが担う情報処理力と、人間の主観的知覚・感情体験とのズレを、心理学実験や現象学の視点から読み解きながら、私たちの知覚と認識の在り方に起きつつある静かな変化に光を当ててみたい。

知覚と記憶のズレが生む「現実」

私たちは「見たもの」をそのまま記憶していると思いがちだ。しかし、心理学者エリザベス・ロフタスの研究は、この素朴な信念に冷水を浴びせる。ロフタスは1970年代から一貫して、目撃証言の信憑性に関する実験を行ってきた。中でも有名なのが、事故映像を見た被験者に対して異なる言葉遣いで質問を投げかける実験である。

たとえば「車が他の車にぶつかったとき、どれくらいのスピードだったか?」と問われた群と、「衝突したとき」と問われた群では、後者の方がより高い速度を報告する傾向が見られた。また、「ガラスが割れていたか?」という質問に対し、実際にはガラスがなかったにもかかわらず、「衝突した」と言われた被験者の方が「はい」と答える率が高かった。

このことは、私たちの記憶が単なる映像の再生ではなく、言語的な枠組みや文脈に基づいて“再構成”されるものであることを示している。つまり、私たちが「見た」と信じているものは、実は「解釈された記憶」に過ぎない可能性がある。

これに対し、AIはどうか。AIはカメラやセンサーを通して膨大な画像データを取り込み、それをピクセル単位で保存・分析する。そこには人間のような“記憶の歪み”はない。だが逆に、意味や文脈、感情の揺らぎを含まない知覚は、果たして「世界を理解している」と言えるのだろうか? AIは「何が写っているか」は識別できても、「なぜそれが大切なのか」までは理解しない。

ロフタスの研究が示すのは、私たちの知覚がいかに柔軟で、同時に不確かであるかということだ。そしてこの不確かさこそが、人間にとっての「意味づけ」を可能にしているのかもしれない。

エリザベス・ロフタス

エリザベス・ロフタス(Elizabeth Loftus)は、アメリカの認知心理学者で、記憶の可塑性(変わりやすさ)に関する研究で世界的に知られています。特に、虚偽記憶(false memories)の研究で有名です。

彼女の実験は、目撃証言がいかに簡単に操作され得るかを示し、司法の現場に大きな影響を与えました。たとえば、事件の記憶が後から与えられた情報や質問の言い回しによって書き換えられることを実証しています。

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現象学の視点――意味を持つ世界の消失?

現象学の祖エドムント・フッサールは、「知覚は常に志向的である」と述べた。つまり、私たちが何かを見るとき、それは単なる物理的な刺激の受容ではなく、「何かを、何として」見るという構造を持っている。

たとえば、通勤中にすれ違う他人の顔を「ただの他人の顔」として見るとき、私たちはそれを“見る”というより“無視している”に近い状態にある。逆に、親しい人の顔を見たとき、その表情のわずかな変化に意味を感じ取る。ここにはすでに、「世界が意味をもって立ち現れる」という知覚の本質がある。

AIは、顔認識において99.9%の精度で一致を検出できるかもしれない。しかし、その顔に対して「親しみ」や「不安」を抱くことはない。現象学的に言えば、AIは世界に対して志向性を持たない。

そして、この“意味をもたない知覚”が日常の中に浸透するとき、私たちの側の知覚もまた、変容を迫られる。たとえば自動運転車が「すべてを見てくれる」世界では、私たちは「自ら見る」力を緩やかに失っていくのではないか。意味の消失は、しばしば快適さという名のベールをまとって忍び寄る。

志向性(しこうせい)

フッサールの現象学における「志向性(しこうせい)」とは、意識は常に「何ものかについての意識」である、という根本的な性質を指します。私たちの意識は、ただぼんやりと存在するのではなく、必ず何か対象(リンゴ、机、思い出、空想など)に向けられています。

例えば、「見ている」という意識は、必ず「見られている何か」を前提としますし、「考えている」という意識も、「考えられている何か」を前提とします。このように、意識が常に対象と結びついている関係性のことを「志向性」と呼びます。

この考えは、私たちが世界をどう意味づけて知覚しているかを探る現象学の核心でもあります。意識と世界は切り離せず、常に相互に関係しながら成り立っているという視点です。

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感情と判断のインタフェース

神経科学者アントニオ・ダマシオは、意思決定において感情が中核的な役割を果たしていることを明らかにした。彼の有名な理論「ソマティック・マーカー仮説」は、感情が選択肢の評価を効率化する“身体的ラベル”として働くことを示唆する。

感情は単なる反応ではない。知覚と判断をつなぐ回路であり、未来の結果をあらかじめ身体に“感じさせる”インタフェースである。AIにはこれがない。いや、正確には「感情的に見える」応答を模倣することはできるが、それが意思決定に感情的重みをもたらすわけではない。

この差異が問題となるのは、たとえば情動認識技術が教育現場やセキュリティに導入されたときだ。教師の表情を読み取って子どもの集中度を測るAI。空港で「不審な顔」を検出する監視システム。そこにあるのは「見えているが、感じていない」知覚の危うさである。

ソマティック・マーカー仮説

ソマティック・マーカー仮説とは、神経科学者のアントニオ・ダマシオ博士によって提唱された、人間の意思決定において感情や身体的な反応が重要な役割を果たしているとする仮説です。

簡単に言うと、私たちが何かを決めるとき、純粋に論理だけで判断しているのではなく、過去の経験と結びついた「良い感じ」「嫌な感じ」といった身体的な感覚(これを「ソマティック・マーカー」と呼びます)が無意識のうちに働き、選択を助けているという考え方です。

例えば、ある選択肢を考えたときに感じる「胸騒ぎ」や「ワクワク感」のようなものがソマティック・マーカーにあたります。これらの身体的な「しるし」が、複雑な状況下での迅速な意思決定や、より良い結果をもたらす選択へと私たちを導いているとされています。

つまり、感情は必ずしも合理的な判断の邪魔をするものではなく、むしろ重要な情報として意思決定に貢献している、というのがこの仮説のポイントです。

AIとの共生とパラダイムの変容

私たちは今、AIに「世界を見せられて」いる。ニュースの要約、移動ルートの提案、最適とされる選択肢の提示、SNSのタイムライン──それらは私たちの知覚の地図を描き直している。選ばれた情報しか見ないという意味で、私たちはかつてないほどに「偏って」世界を見ているかもしれない。

だがそれは、単なる受動的退化ではない。私たちは意識的・無意識的に、知覚や判断の一部をAIに“委託”している。これは一種の認知的アウトソーシングであり、便利さと引き換えに「考えること」や「戸惑うこと」を減らしている。

偶然性や逸脱、意味のズレ──そうした“ノイズ”が失われるとき、世界は確かに滑らかになる。しかし、その滑らかさの中でしか見えない風景もまた、あるのではないか。

結びにかえて――拡張としての喪失、あるいは喪失としての拡張

AIによる知覚の代行は、私たちにとっての「現実」の意味構造そのものを変えつつある。より正確に、より効率的に──その流れの中で、私たちは何を失い、何を獲得しているのか。

拡張とは、何かを増やすことであると同時に、何かを諦めることである。喪失とは、単なる欠落ではなく、新たな意味の誕生でもあるかもしれない。

私たちは今日も、AIに見せられた世界の中で、何かを「見ている」。その見えているものの背後に、見えなくなったものを想像する力。それを手放さない限り、この変化は喪失ではなく、変容と呼べるのかもしれない。

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この記事を書いた人

フレームシフトプランナー。
AIとの対話で「問いのフレーム」を意図的にシフトし、新たな視点とアイデアを生み出す。

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