アドラー心理学と仏教。野田俊作と仏教が説く、偽善を超えて「共同体」を生きる技術

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野田俊作と仏教が説く、偽善を超えて「共同体」を生きる技術

本記事は、成果を出し続けながらも虚無感を抱えるビジネスパーソンに向け、野田俊作氏が伝えたアドラー心理学の真髄を仏教的視点から再解釈します。「自分を変える」という執着を捨て、諸行無常のなかで「他者への貢献(協力)」を選ぶことで得られる、真の自由と心の安寧への道のりを提示します。

目次

自己最適化の果てに待つ「承認欲求の沼」

多くのビジネスパーソンは「自己最適化」というゲームに勝ち続けてきました。

時間管理を徹底し、スキルを磨き、高い評価を得る。しかし、ふとした瞬間に襲ってくる「このままでいいのだろうか」という虚しさ。人間関係はどこか損得勘定に基づき、他者の顔色を窺いながら「承認」という報酬を追い求める日々。

世に溢れるアドラー心理学の解説書は、そんな私たちに「嫌われる勇気を持て」と説きます。しかし、その言葉を表面通りに受け取った結果、ただ孤立を深め、頑固な「自己中心者」になってしまった人も少なくありません。

日本におけるアドラー心理学の第一人者であった精神科医・野田俊作氏は、晩年、アドラーの思想をより厳しく、より深く補正していきました。彼はアドラーの思想を単なる心理学の技法としてではなく、もっと根源的な「生き方の哲学」、あるいは「宗教的」とさえ呼べる深い人間観として伝えようとしたのです。

この記事では、野田氏が遺した言葉を紐解き、それを仏教の「諸行無常」「縁起」「菩提心」という視点から再解釈します。

私たちが求めていた「救い」は、自分を高めることではなく、むしろ「私」という執着を逆手に取り、他者との「協力」の中に自分を溶かし込んでいく過程にありました。

共同体感覚という「不適当な言葉」を捨て、協力を選ぶ

野田氏は、アドラー心理学の根幹である「共同体」という言葉について、重要な定義を残しています。それは、現代の契約社会(ゲゼルシャフト)ではなく、根源的な血盟共同体(ゲマインシャフト)を指すということです。

「共同体」とはゲゼルシャフト(契約社会)と二項対立するゲマインシャフト(血盟共同体)のことである

野田俊作の補正項より

契約を超えた「ゲマインシャフト」への回帰

私たちが生きるビジネスの世界は、利益や契約で結ばれた「ゲゼルシャフト」です。そこでは役割と成果がすべてであり、人間関係は機能的で表層的になりがちです。しかし、野田氏が説いた共同体は、もっと土着的で、理屈を超えた繋がりのある「ゲマインシャフト」でした。

「共同体感覚」とは、このゲマインシャフトにおいて「これはみんなにとってどういうことだろう、みんなが幸せになるために私は何をすればいいのだろう」と考えることです。

しかし、野田氏は警告を発します。この考え方は、しばしば「偽善」に陥る、と。

気分としての共感から、行動としての「協力」へ

野田氏は「共同体感覚」という言葉を「きわめて不適当な言葉」であるとし、普段は「協力」という言葉に置き換えていました。なぜか。それは、この言葉が感情的な「気分」の問題にすり替えられやすいからです。

野田氏が求めたのは、気分としての共感ではなく、困ったことが起こったときに「自分の利益のためでなく人々の利益のために現実的な解決目標を考え、実行する」という具体的な行動でした。

この「協力」という泥臭い実践こそが、仏教でいうところの「縁起」の世界を生きる技術なのです。

なぜ「自己肯定感」を求めるほど、孤独の檻は強固になるのか

昨今の自己啓発の世界では、「自己肯定感を高めよう」という言葉が溢れています。しかし、野田アドラー心理学と仏教の視点に立てば、この行為こそが苦しみの源泉である「我執(がしゅう)」そのものであることがわかります。

「自己執着」が変装した姿

「自分は無私で素晴らしい人間だ」という幻想(自己肯定)を抱こうとすれば、必ず偽善の苦しみが生まれます。

野田氏は、共同体感覚を仏教語で「世俗菩提心(せぞくぼだいしん)」であると表現しました。これは、定義によって「無私」ではありません。

「自分が幸せになりたいなら、他人を幸せにしなさい」

これが野田氏の説いた共同体感覚の本質です。

目的は「自分が幸せになること(利己)」であり、その手段として「他者を幸せにする(利他)」を選択しているに過ぎません。実はこれさえも、アドラー心理学用語で言えば、巧妙に変装した「自己執着」なのです。

賢い利己主義者として生きる

諸行無常の世界において、固定された「素晴らしい自分」などどこにも存在しません。それよりも、「私は自分が幸せになりたい。だからこそ、周りと協力するのだ」という「賢い利己主義」を認めてしまう方が、仏教的な「正見(ありのままを見る)」に近いと言えます。ただ「協力」という行為の連鎖の中にのみ、一時的な「私」が立ち現れるだけなのです。

理性を制御する、理性を超えた「価値の基準」

野田氏は、宗教のないアドラー心理学には意味がない、とまで断言しています。「仏教がなければ、ひとつひとつの判断ができない」と。なぜ、科学的であるはずの心理学に、理性を超えた宗教心が必要なのでしょうか。

宗教のないアドラー心理学っていったいなんなんだい、そんなの意味ないじゃん、と私は思ってしまう。

仏教は、少なくとも私にとっては、ぜったいに必要だ。仏教がなければ、ひとつひとつの判断ができない。つまり、仏教が価値の基準を与えてくれている。 価値の基準は超越的なものであって、科学はそれに関与できない。

野田俊作の補正項より

理性の暴走は世界を滅ぼす

「共同体感覚」は理性的な結論であって、それ自体は価値の基準にならないと野田氏は指摘しました。人間が理性だけを頼りにすれば、理性は必ず「自分の利益」のためにだけ働くようになり、最終的には世界を滅ぼしていく。

ビジネスシーンにおける「最適化」や「効率化」が、時に人間性を破壊し、環境を損なうのは、理性を制御するための「理性を超えた価値基準」が欠けているからです。

科学が関与できない「超越的な判断」

価値の基準は超越的なものであり、科学はそれに関与できません。野田氏にとって、それは仏教でした。

「これはみんなにとってどういうことだろう」という問いを偽善に終わらせず、本当に実行するためには、自分の損得を超えた「何か」に対する畏怖や、慈悲の念といった宗教心が必要なのです

私たちが「課題の分離」を行い、他者の課題に踏み込まない勇気を持てるのも、自分のエゴ(理性的な損得)を超えた、より大きな生命の繋がり(縁起)を信頼しているからに他なりません。

下心を抱えたまま「協力」へ向かうための三つの覚悟

野田俊作氏の遺した「補正項」に基づき、私たちが明日から実践すべき「生き方の修正」を提案します。

偽善を認め、機能としての「協力」を優先する

「みんなのために」という思いの中に、自分の評価を高めたいという下心があることを否定しないでください。それは人間として当然の「世俗菩提心」です。その下心を抱えたままでいいから、現実に困っている状況に対して「効果的な行動」を選択してください。気分ではなく、機能としての「協力」を優先するのです。

理性の暴走を「非理性的な基準」で止める

自分の頭の良さや、論理的な正しさを信じすぎないでください。理性は放っておけばあなたを孤立させ、自己利益の奴隷にします。一日の終わりに、あるいは重要な決断の前に、「これは世界を滅ぼす方向に働いていないか?」と、自分の理性を超えた何かに問いかける時間を持ってください。

「自分」という物語を書き換える

「私はこうあるべきだ」という自己肯定の物語を捨ててください。あなたは、縁(環境や他者)によって刻々と変化する「諸行無常」の存在です。自分を固定された点ではなく、他者との「協力」という関係性の中に流れるプロセスとして捉え直したとき、承認欲求という名の執着は、自然と熱を失っていきます。

終わりに:宇宙という共同体に溶け込む「小さな私」の勇気

野田俊作氏は、アドラー心理学を「宗教的」と評することで、私たちが「孤独な個人」として戦う限界を示しました。

私たちが本当に求めているのは、自己肯定感という名の鎧ではありません。むしろ、その鎧を脱ぎ捨てて、不完全なまま、下心さえ抱えたまま、それでもなお「誰かの役に立とうとする」瞬間の、震えるような手応えです。

「自分が幸せになりたいなら、他人を幸せにしなさい」

この野田氏の平易で鋭い言葉を、今日からの指針にしてください。

それは、あなたの理性を超え、あなたを縛る「私」という執着からあなたを解放し、宇宙という大きな共同体(ゲマインシャフト)へと連れ出してくれる唯一の鍵なのです。

今日、オフィスを出る前に、あるいは家族に会う前に、自分にこう問いかけてみてください。

「今日、私は誰かと『協力』しただろうか? そのとき、自分の利益だけでなく、みんなの利益を少しでも考えただろうか?」

もし「自分のことしか考えていなかった」と気づいても、自分を責める必要はありません。その「気づき」こそが、あなたの理性を超えた新しい価値基準が芽生え始めた証拠なのです。

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この記事を書いた人

フレームシフトプランナー。
AIとの対話で「問いのフレーム」を意図的にシフトし、新たな視点とアイデアを生み出す。

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