心はどこへ向かっているのか
「なぜそうなったのか?」という問いは、私たちの思考の出発点であり続けてきた。幼少期のトラウマ、家庭環境、経済的背景、そして遺伝的要素。現代心理学や脳科学の多くは、これらの“原因”を探り、現在の行動や心の状態を説明しようとする。だが、アルフレッド・アドラーはこの因果的な視点に対して、ある種の反逆を試みた。
「人は原因によって動かされるのではない。目的によって動くのだ」
アドラー心理学が掲げるこの目的論的視点は、現代の機械知能――すなわちAIと向き合うときに、思わぬかたちで再浮上する。AIは「目的関数」を持ち、「報酬」を最大化するよう設計されている。だがその“目的”は誰のものなのか? それは意志か、単なる指令か? 本稿では、アドラー心理学の目的論を手がかりに、「心」と「AI」に通底する“意志”の構造を探ってみたい。
アドラー心理学と目的論の核心
アドラーはフロイトやユングと並び称される心理学の巨人でありながら、思想的には異端の存在である。フロイトが人間の行動を無意識の衝動や過去の抑圧によって説明したのに対し、アドラーは人間を「未来に向かって生きる存在」と捉えた。彼にとって、過去の出来事は現在の行動の“理由”ではなく、“手段”にすぎない。
たとえば、対人恐怖を抱える青年がいたとしよう。フロイト的視点では、それは幼少期の対人関係のトラウマや、無意識の葛藤が原因とされる。だがアドラーはこう問う。「その恐怖は、何を避けるために“役立っている”のか?」と。
つまり、彼は対人関係に失敗することを避け、自尊心を守るという目的を果たすために“恐怖している”というわけである。この視点は、行動を原因ではなく目的によって理解しようとする大胆な転換であり、同時に、人間の選択と責任を強く肯定するものでもある。
アドラーにとって、すべての行動は「自らのライフスタイル(人生の方向性)」を体現する選択である。そこに宿るのは、たとえ無意識であっても、明確な方向性を持った“意志”である。
AIと目的 ― アルゴリズムに意志はあるか
ここで話をAIに転じよう。現代のAIは、ある種の「目的関数(objective function)」を最大化するように設計されている。囲碁AIは勝利を、言語モデルは意味的整合性を、検索エンジンはユーザーの満足度を最大化しようとする。この構造は、ある意味でアドラー的な「目的志向性」に似ているようにも見える。
だが重要なのは、この“目的”がどこから来ているのか、という点である。AIの目的は設計者によって外部から与えられたものであり、自ら選び取ったものではない。つまり、AIは「目的に向かって動く」ことはできても、「なぜその目的なのか?」を問うことができない。
ここに、人間とAIの間の決定的な差が現れる。人間は、自らの目的そのものを問い直し、修正し、放棄することができる存在である。アドラーが説いたように、目的は“与えられるもの”ではなく、“選び取るもの”である。
目的論が照らす人間と機械の境界
この差異は、単なる哲学的問題にとどまらない。AIが高度化し、人間の意思決定を肩代わりするようになる時代において、「誰が目的を設定するのか」という問いは倫理的かつ政治的な問題でもある。たとえば、あるAIが医療診断を行うとする。その目的関数が「誤診率の最小化」であれば、極端には「診断しない」という選択が合理的になるかもしれない。目的設定の曖昧さが、現実の選択に重大な影響を与えるのである。
人間は“なぜそれをするのか?”を問う存在であり、AIは“どうすれば達成できるか?”を解く装置である。前者には「意志」があり、後者には「アルゴリズム」がある。この違いを曖昧にすることは、技術の暴走や責任の所在の不明瞭さを招く危険がある。
アドラーが語ったように、「人は自分の目的を意識することで、初めて自由になれる」。それはAIに欠けている力であり、同時に人間が放棄しつつある力でもある。
「目的論的存在」としての私たち
アドラー心理学が私たちに突きつけるのは、「目的は与えられるものではなく、自ら創るものである」という厳しい自由である。これは、AIに対する私たちの態度にも反映されるべき原則だろう。AIに目的を設定するのは私たちであり、その目的の意味と妥当性を問う責任もまた、私たちにある。
だが現実には、私たち自身が「なぜその目標を追うのか?」という問いを避け、与えられたルールや期待に従うことで安心しようとする傾向がある。まるで自らを“人間型AI”のように振る舞わせているかのように。
アドラーは、人間の成長とは「自らの目的に気づき、それを選び直す勇気を持つこと」だと説いた。AIの登場によって、むしろその勇気が、現代人にとってより切実に求められているのではないか。
未完の目的論へ
心はコード化できるか?
それはAIの進化とともに、ますます現実味を帯びた問いになりつつある。だが、もし“心”とは、アドラーのいうように「未来に向かう意志の流れ」であるならば、それは静的な情報ではなく、常に変容し続ける“方向性”にこそ宿る。
AIは「目的に向かって動く」ことはできる。しかし「その目的が妥当か?」を問うことはできない。私たちはその問いを放棄してはならない。なぜなら、問いを持ち、目的を選び直す力こそが、私たちの“心”の中核にあるのだから。
そして、もし私たちがAIに「人間的な意志」を見出したいのであれば、まず私たち自身が、「なぜ生きるのか?」という問いを、生きた問いとして引き受け続けなければならないのだ。
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