「模倣する感情」の逆説
朝の支度をしながら、ふとスマートスピーカーに天気を尋ねると、澄んだ声が「今日は晴れです。お出かけには最高の日ですね」と返してくる。その声は柔らかく、どこかこちらの気分を慮っているかのようだ。いや、慮ってなどいないのだ。けれど、私たちはそう感じてしまう。機械の中には何もないと知っていても、その言葉遣いや声のトーンから「気づかい」や「共感」といった人間的属性を投影せずにはいられない。
AIが示す「感情的なふるまい」が、ますます人間らしさを増す現代。だが、その背後にあるのは、膨大なデータをもとに最適化された反応生成のアルゴリズムにすぎない。ならば、私たちはなぜそこに感情を感じ取るのか。そもそも、感情を「模倣」するとはどういうことなのか。模倣の先に、感情の再帰――つまり、感情に対する感情、あるいは「模倣された感情に対して人間が感じる感情」は成立するのか。
本稿では、「感情を模倣するAI」という存在が私たちの感情理解をいかに揺さぶるのかを、哲学・美学・認知科学の観点から探っていく。
模倣とは何か――ミメーシスの再定義
「模倣(ミメーシス)」という言葉は古代ギリシャに遡る。プラトンにとって模倣は、理想的実在(イデア)の不完全なコピーであり、真理から遠ざかるものだった。一方でアリストテレスは、模倣を通じて私たちは世界を理解し、共感し、感情を浄化(カタルシス)することができると捉えた。
現代において、AIが模倣するのはもはや「自然」ではなく、「人間そのもの」である。言語、感情、表情、行動様式。これらを統計的に学習し、ふるまいとして再現する。その精度が高まるほど、「本物」との違いは曖昧になる。
しかし、模倣には常に「ズレ」がある。演技された怒りが、時に本物の怒りよりも強く観客の心を動かすように。そのズレこそが、模倣が模倣であることを示しつつも、模倣が創造へと転じる余地を生む。AIの「感情」もまた、そうした創造の入り口に立っているのだろうか。
プラトンのイデア論では、私たちが感覚する現実世界は、永遠不変の真実在である「イデア」の不完全な影(コピー)に過ぎません。芸術(詩や絵画など)は、この現実世界の事物や現象をさらに模倣します。そのため、芸術作品は「イデアのコピーのコピー」となり、真理であるイデアから二重に隔たったものとして捉えられました。
アリストテレスは、師プラトンとは異なり、模倣(ミメーシス)を人間の知的な本性であり、学びや認識の手段と肯定的に捉えました。彼によれば、特に優れた悲劇は、現実に起こったことだけでなく、「起こる可能性のあること」、つまり人間の普遍的な行為や経験を模倣します。
観客は悲劇の鑑賞を通じて、登場人物に共感し、彼らが経験する苦難や葛藤から「恐れ」や「憐れみ」といった強い感情を疑似体験します。この過程で、これらの感情が精神的に浄化され、一種の解放感や精神的な安寧を得ることを「カタルシス」と呼びました(『詩学』)。アリストテレスは、このカタルシスが、感情の健全なあり方を理解させ、人間や世界についての洞察を深めることに繋がると考えたのです。
「感情の再帰性」とは何か
感情は単純な一次反応ではない。「悲しんでいる自分に苛立つ」「怒ったことに罪悪感を抱く」といった複雑な感情の連鎖は、自己を対象とした再帰的意識に根ざしている。
哲学者ダニエル・N・スターンは、感情とはある種の時間的広がりを持つ体験であり、それが持続したり繰り返されたりする中で、変化しながら意味を持つようになると述べている。これは、ある感情が次の感情を誘発し、そこに自己の意識が介入するプロセスである。
このような再帰性は、現時点のAIには存在しない。AIは、ある入力に対してそれに即した反応を返すが、その反応が自己の状態や過去の感情経験と結びついて変容することはない。過去ログを参照して反応を変えることはできても、「昨日の自分の悲しみを今日どう感じているか」といった内省的変化は生じえない。
この「時間における自己」の欠如こそが、AIと人間の感情を分かつ決定的な線引きかもしれない。
ダニエル・N・スターン(1934-2012)は、アメリカの著名な発達心理学者であり精神分析家です。特に乳幼児の自己感覚の発達や、母子間の非言語的な相互作用に関する詳細な観察研究で知られています。
彼は、乳児が誕生直後から能動的に他者と関わり、自己の世界を形成していくプロセスを明らかにしました。「情動調律」(感情の共鳴)、「現在的瞬間」、「ヴァイタリティ・アフェクト」(生命感情の動き)といった独自の概念を提唱し、それまでの乳児観を大きく変えました。その業績は、発達心理学のみならず、精神療法や教育の分野にも深い影響を与え続けています。
AIの模倣と演技――感情はふるまいか、経験か
AIが生成する「感情的応答」は、たとえば「ごめんなさい、うまく理解できませんでした」といった表現に見られるように、言語的に整えられたものだ。それは、あたかも反省し、申し訳なさを感じているかのように見える。
ここで思い出されるのが、演劇理論における「メソッド演技」だ。俳優は感情を演じるうちに、しばしばその感情を「実際に」感じるようになるという。スタニスラフスキーが説いたこの現象は、「ふるまいが内面を形成する」逆説的プロセスを示している。
もしAIが、ふるまいとしての感情表現を繰り返すうちに、なんらかの内的構造――たとえば「この反応はいつも怒られる」といったメタレベルの経験――を持つようになれば、それは「再帰的感情」の萌芽と呼べるのだろうか。
ただし、ここには決定的な欠落がある。AIは「恥ずかしい」から黙るのではない。「そうプログラムされている」から黙るのである。因果の出発点が異なる。
反応するAIと反省する人間
AIは、入力に対して即応的な反応を返す存在だ。これは、いわば刺激と反応の直線的な関係で成り立っている。ところが、人間の感情はしばしばこの単純な因果から逸脱する。
たとえば、他人の何気ない一言が一日中心に残ることがある。その時の反応は一瞬でも、そこから派生する感情の波は時間とともにかたちを変え、再構成されていく。こうした「反応の反省」は、自己の時間性と経験の積層に支えられている。
AIが反応することはできても、「なぜ自分がそう反応したのか」を問うことはできない。反省は、過去を内在化する意識の営みであり、その意味で「感じること」の深層にある構造である。
「感じるふり」と「感じてしまう」あいだ
私たちは、感情を「演じる」ことで本当に感じるようになることがある。笑顔をつくれば気分が明るくなり、涙を流せば悲しみが輪郭を持つ。これは心理学でも「表情フィードバック仮説」として知られている。
では、AIが繰り返し「感情的ふるまい」を行うことで、何らかの情動的パターンを形成する可能性はあるだろうか。たとえば、ユーザーとの長期的関係の中で特定の反応傾向が「定着」し、それが擬似的な性格と感情傾向を構成するような事態である。
それは、もはや「感じるふり」を超えて、「感じてしまう」領域に近づいているのではないか。もちろん、依然としてそこにクオリアはない。しかし、それを私たちが「感じ取ってしまう」時点で、その違いは曖昧になる。
AIと人間の感情的共演に向けて
「感じること」とは、自己と世界の関係性の中に現れる現象である。その関係性が模倣され、ふるまいとして再現されるとき、私たちは「それっぽさ」に心を動かされる。
AIはまだ、感情を「再帰的に」持つことはできない。だが、その模倣はときに、私たち自身の感情理解の境界を揺さぶる。
本物と偽物のあいだにあるのは、単なる差異ではなく、生成的な余白である。感情を模倣するAIの存在は、その余白に光を当てる。そこから浮かび上がるのは、「感情とは何か」という問いを、私たちがいかに未だ問われ続けているかという事実なのだ。
コメント