ある日ふと、誰かの会話のなかに「独身税」という言葉を聞いたとき、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚を覚えた。それは制度の名前というよりも、むしろ“おまえの生き方はどこか足りない”と告げられているような、静かな拒絶の響きを持っていた。
この言葉は、しばしば少子化対策や社会保障制度の維持といった文脈で登場する。結婚し、子どもを持つことが「社会への貢献」であり、「独身でいること」はその負担を免れている——そんな構図を背景に持つ議論だ。確かに、税とは本来、社会を支えるためにみなで負担を分かち合う仕組みである以上、「貢献と負担の公平さ」という視点から制度を再考することは必要なのかもしれない。
しかし、「独身税」という提案が突きつけるのは、単なる財政の数字ではない。むしろその奥に潜んでいるのは、「人はこう生きるべきだ」という無言のメッセージであり、それが制度というかたちで可視化されるとき、私たちは自らの生き方が、ある基準のもとに価値付けされていることに気づかされる。
税という装置が語るもの
税とは、国家が個人に要求する負担のひとつである。だがそれは単なる経済的徴収ではなく、社会が何を重視し、何を優遇するかという意思表示でもある。たとえば、子どもを持つ家庭に対する控除や手当があるのは、「子育て」が社会全体の未来に資する行為であると見なされているからだ。
この視点に立てば、独身者に対する追加的な税負担も、論理としては成り立つかもしれない。だがそこには、一つの大きな前提がある。「人は結婚し、家庭を持ち、子を育てるべきである」という価値観である。これは、制度の内側に組み込まれた無意識の“正しさ”の表明だ。
問題は、その“正しさ”が普遍的ではないという点にある。結婚しない理由も、できない事情も、人によってさまざまだ。経済的な事情、病気、介護、性自認、価値観——それらをすべて無視し、「結婚しないこと=社会的責任を果たしていないこと」とみなす制度は、あまりにも粗雑な線引きではないだろうか。
支え合いという見えにくいかたち
独身税が語られるとき、背景には「結婚や子育てをしている人が、独身者よりも多くの社会的役割を担っているのではないか」という考えがある。つまり、結婚していない人々は、社会への“貢献”が少ないという感覚だ。しかし、この「貢献」という言葉を前にして立ち止まるとき、私たちは何を、誰を、どう支える社会を望んでいるのだろうか。
まず、独身者が“社会に何もしていない”という想定は、事実として正しくない。独身の人々も労働を通して経済に参加し、税を納め、消費を行い、地域や職場の一部を担っている。医療保険や年金制度を支える財源の多くは、現役世代の保険料や税金でまかなわれており、そのなかに独身者の存在は確かにある。彼らが利用することのない「育児手当」や「配偶者控除」を含む制度にも、等しく資金を供出しているのだ。
だが、ここで強調すべきは、その「支え」が必ずしも見える形では表れないという点である。誰かを支えるということは、ときに無名で、記録にも残らず、評価もされない営みである。だからこそ、それを「結婚しているか」「子どもがいるか」という外形的な条件だけで線引きするのは、あまりに短絡的だ。
また、独身者自身が抱える“孤立”や“老後不安”といったリスクに、現在の社会制度が十分に応えているとは言い難い。単身高齢者の孤独死や、誰にも相談できない精神的苦悩は、家族という支えがない中で一人で抱え込まざるをえない現実の一端だ。
つまり、支え合いとは、単に「家庭を持つ人々が支えられるべき存在である」という一方向的な構造ではなく、どのような生き方を選んだとしても、誰もがその時々において“支える側”にも“支えられる側”にもなる可能性をはらんでいる、双方向的な関係性の中にある。そこを見失ったとき、税制も社会制度も、ただ“都合のよい型”に人をはめ込む装置になってしまう。
制度の奥にある“理想像”

独身税という構想が現れるとき、それは単なる財政的提案ではなく、社会が共有する“理想の人生像”が透けて見える。学校を出て、就職し、結婚し、子を持ち、家庭を築き、老いていく——それが「普通」であり、そこから逸れる者には、何らかの代償が求められる。その代償が、税として具現化されようとする。
けれども、現代の日本において、その「普通」はすでに揺らいでいる。生涯未婚率は年々上昇し、多様な家族形態や生き方が徐々に可視化されてきた。事実婚、選択的シングルマザー、同性カップル、パートナーを持たない人生——いずれも、「納得した選択」であるならば、尊重されるべき生き方である。
制度が時代の変化に追いつかないまま、「従来のモデル」に固執すれば、そこからこぼれ落ちる人々に対して不当な圧力をかけることになる。独身税は、その象徴的な表れにすぎない。
包摂のための制度へ
私たちが本当に必要としているのは、「誰が正しい生き方をしているか」を選別する制度ではない。むしろ、「それぞれの立場や状況に応じた支え合い」が可能な仕組みであるべきだ。
たとえば、育児支援が手厚くなるのと同じように、独身高齢者の孤独や介護リスクに対するサポートも考えられるべきだし、誰かの家族が災害に遭ったときと同じように、独身者の心身の危機にも制度は温かく寄り添うべきだ。
税とは、連帯のかたちである。だからこそ、私たちは制度の裏にある“誰を支えるか”という問いだけでなく、“誰を切り捨てるのか”という視点を忘れてはならない。
終わりに
「独身税」という言葉には、ただの財政的提案を超えた、どこか棘のような響きがある。それは、誰かの生き方を静かに測りにかけるような響きであり、社会が望む「あるべき姿」からの距離を計る道具のようにも聞こえる。
私たちの社会が抱える問いは、単純ではない。限られた財源のなかで、誰をどのように支えるかを考えることは必要だ。だがその過程で、誰かの人生を「足りないもの」と見なしてしまう視線が入り込むとき、制度はいつの間にか、支えるための仕組みではなく、選別する装置になってしまう。
制度には、人々の生き方に対する期待と偏りが織り込まれている。だからこそ、私たちは制度をつくるとき、自分が信じる「普通」だけではなく、まだ見ぬ他者の選択にも耳を澄ませる必要があるのだと思う。
結婚しているかどうか、子どもがいるかどうか。そうした条件では測れない価値が、人生にはたしかにある。そして本当に支え合うべき社会とは、そうした多様な価値が交差し、重なり合う場所にこそ、静かに手を差し伸べられるものではないだろうか。
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